名古屋高等裁判所 昭和63年(う)360号 判決 1988年12月21日
主文
原判決を破棄する。
本件を名古屋地方裁判所に差し戻す。
理由
本件控訴の趣意は、名古屋高等検察庁検察官服部國博の提出にかかる名古屋地方検察庁半田支部検察官岩崎又三が作成した控訴趣意書に、これに対する答弁は、弁護人榊原匠司、同湯木邦男及び同秋田光治が連名で作成した答弁書に、それぞれ記載されているとおりであるから、これらを引用する。
控訴趣意中、訴訟手続の法令違反に関する所論は、要するに、原審裁判所は、本件業務上過失致死傷被告事件(昭和五五年四月一四日午後零時三〇分ころ県道半田南知多公園線を武豊インター方面から半田インター方面に向かって北進中の被告人運転に係る普通貨物自動車《以下「被告車」という。》と折から右道路を対向して来たA運転の普通乗用自動車《以下「被害車」という。》とが愛知県知多郡武豊町字梨子ノ木九番地の九〇先で衝突し、合計三名が即死し、一名が加療約三週間を要する傷害を負ったという事案《以下「本件事故」という。》で、その公訴事実の内容は別紙のとおり。)の審理において、検察官が、被告車の進行していた本件事故現場に至るまでの道路状況について、実際には、本件事故現場の手前約八〇メートル付近で左方に大きく湾曲しながら本件事故現場に至るというものであるのに、本件事故現場に至る約九〇〇メートル手前から左方に大きく湾曲しているとの間違った前提に立ったうえ、被告人においてこの左方へのカーブ内で同所が登り坂であるためアクセルを吹かして加速したことをもって、被告人の過失とし、かつ、ハンドル操作の点は過失から除外する旨、誤った訴因の変更請求をしたところ、これを許して放置し、本件事故の実態に即したように訴因変更をすれば、被告人が本件の公訴事実について有罪となることが明らかであるにもかかわらず、その後も検察官に対して訴因変更の命令ないし勧告をせず、審理不尽のままいきなり、被告人の暴走運転という重大過失のために三名が即死し、一名が負傷したという重大事案について、被告人を無罪とする判決を言い渡したものであって、この原審裁判所の措置には、判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反がある、というのである。
所論にかんがみ、記録を調査して検討するに、まず、原審の訴訟手続において検察官がどのような訴因を主張し、また、原審裁判所が検察官主張の訴因に対してどのような判断をしたうえ被告人に無罪を言い渡したかについて見るならば、次のとおりである。
すなわち、検察官は、本件の公訴事実について被告人を起訴するに当たり、当初、「被告人は、本件事故の日時ころ、被告車を運転して本件事故現場付近に差し掛かったが、同所は左に大きく湾曲している登り坂であり、当時降雨のため路面が湿潤し、滑り易い状態にあったのであるから、このような場合、あらかじめ減速徐行し、ハンドル操作に留意して進行すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、漫然約八〇キロメートル毎時の高速で進行を続けた過失により、同所が登り坂であったため軽くアクセルを踏んだところ、被告車後部が右方に振れ、次いでハンドル操作の自由を失い、被告車を右回りに回転させつつ対向車線に進入させ、折から対向して来た被害車前部に被告車左側部を衝突させた。」との訴因を提出し、その後、原審第三四回公判期日において、従前の訴因によれば、被告人の過失は「漫然約八〇キロメートル毎時の高速で進行を続けた」こととされるところを、「漫然約八〇キロメートル毎時の高速で進行を続けたうえ、同所が登り坂であるため更に加速した過失」に訴因を交換的に変更する請求をし、同第三七回公判期日において、弁護人からの求釈明に応じ、ハンドル操作の点は注意義務から除外される旨釈明したうえ、原審裁判所によって右訴因変更の許可を受け、更にその後、同第三八回公判期日において、原審裁判所から過失の内容を明確にするようにとの求釈明を受けたのを踏まえ、同第三九回公判期日において最終的に、被告人の過失は「左方に大きく湾曲している登り坂に差し掛かった際、当時降雨のため路面が湿潤し、滑り易い状態にあったのであるから、あらかじめ減速して進行し、登坂中の加速を厳に避けるべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、漫然約八〇キロメートル毎時の高速で進行を続けたうえ、更に加速した」ことである旨、従前の訴因を交換的に変更する請求をし、同第四〇回公判期日において、原審裁判所によって右訴因変更の許可を受けたものであるところ、原審裁判所は、右二度目の変更に係る訴因を前提として審理を進めた末、本件について判決するに機が熟したとして、同第四六回公判期日において、被告人に対し無罪の判決を言い渡したものである。しかるところ、原判決が被告人を無罪とした理由の骨子と、その前提として原判決が認定判示した事実関係の大要とは、(1)被告車(その構造及び本件事故直前の整備状態は原判決二の2のとおりである。)が六五ないし八〇キロメートル毎時の速さ(後記加速開始前の速さであり、原判決は、この速さをこれ以上に特定することはできないとしているけれども、この特定不能の点は、原審で取り調べられた各証拠に照らして疑問の余地がある。)で本件事故現場に至る約九〇〇メートル手前から左方に大きく湾曲している登り坂に差し掛かり、右坂道(本件事故現場付近の道路状況や路面状況は原判示二の1と同3と後述とのとおりであり、本件事故直前では被告人は右道路状況や路面状況が以上のとおりであることを熟知、確認していた。)を登り切ろうと、被告人において加速措置をとった際、被告車後部が右方に振れ、被告車が左斜めに進行する形となったため、被告人において左側ガードレールとの衝突を避けようとして、加速措置をとったままの状態で右へ急ハンドルを切ったところ、被告車の体勢がいったん立ち直ったかに見えたものの、続いて被告車後部が左側へ振れ出し、被告人はハンドル操作の自由を失い、被告車が右回りに回転しつつ対向車線に飛び出した末、折から対向して来た被害者前部と被告車左側部とが衝突した。(2)被告人が右のとおり加速措置をとったままの状態で右へ急ハンドルを切ったのは、被告車が前記(1)のとおり左斜めに進行する形となったとき以後では、以上の急ハンドル操作をしない限り、被告車が左側ガードレールに衝突したうえこれを乗り越えて路外に転落する虞があった以上、やむを得ないものであり、この点について被告人の過失を論じることはできず、したがって、それ以前に被告車が左斜めに進行することとなった直接の原因である被告車後部が右に振れたことについて被告人の過失(換言すれば、被告車が左斜めに進行することとなるよりも前の時点での本件事故回避可能性)の存否が問題になるに過ぎない(ただし、この判断は、原審で取り調べられた各証拠に照らして、その正当性に疑問の余地がある。)、(3)弁護人は、被告車の右前輪に軽度のひきずり(無制動の状態での車輪の回転に対する異常な抵抗)があり、これが被告車後部が右に振れた原因である旨主張するところ、仮に、そのようなひきずりがあったとしても、後輪が大きな駆動力を得て坂道を登っているような場合はその影響は現れ難いし、被告車後部が左に振れることはあっても右に振れることはないから、弁護人の主張は相当ではない、(4)本件事故当時直前の本件事故現場付近における降雨状況はかなりの程度で、視界が悪く、路面はべたべたにぬれてはいたが、本件事故現場付近の道路には横断勾配が付けられ、路面に雨水の滞留はなく、併せて、被告車の駆動力が保持され、ハンドル操作も可能であったことからすれば、ハイドロプレーニング現象が発生したため、被告車後部が右に振れたものとは認められない、(5)また、車両の走行自体によって後輪に横向きの力が働き、この力がコーナーリングフォースを上回るために走行不安定になるという事態は、路面の湿潤によるコーナーリングフォースの減少を考慮に入れても、被告車の速さが六五ないし八〇キロメートル毎時程度では生じるものとは認められない、(6)更に、被告人において、被告車後部が右に振れる直前に、制動措置をとったり、急激ないし過剰に左にハンドルを切った事実も認められないから、これがために被告車後部が右に振れるということもない、(7)被告人において、被告車が左方に大きく湾曲した道路を進行中で、かつ、被告車後部が右に振れる直前に、加速措置をとったことは認められるものの、被告車が当時高速で進行していたことからすれば、計算上、被告車後部が右に振れるほどコーナーリングフォースが減少するなどということはない、(8)結局のところ、被告人が本件事故現場の手前で同所が登り坂であるため更に加速したことのみによっては、被告車後部が右に振れる可能性を証拠上肯認することができないから、本件事故について被告人に過失のあることを証明できない、というものである。
しかしながら、原審で取り調べられた各証拠によれば、原判決も一部言及しているように、被告車の機能、特に、そのタイヤ、ブレーキ装置、アクセル装置及びクラッチ機構は正常であったし、被告車が進行していた本件事故現場付近の道路には何も異常はなく(ただし、前記左カーブ開始地点は、本件事故現場の手前(南方)約九〇〇メートルの地点ではなく、右事故現場のすぐ手前で、被告車後部が前述のとおり右方に振れた地点付近であることがうかがえる。)、被害車を運転していた前記Aには異常な走行方法はなく、その他異常な行動をしていた交通関与者は全くなく、したがって、被告人にとっては不可抗力的な事態(客観的にも主観的にも予見不可能な事態)は存在していなかったことが明らかであり、原判決も以上のことがらを前提事実として肯定していると考えられるところ、仮に、原判決の以上の事実認定や判断(回避可能性の存否)がすべて正当であるとしても、本件事故は被告人の運転操作(高速走行、加速、高速走行ないし加速中のハンドル転把)の不適切が原因となって発生したものと断ぜざるを得ない道理である(当裁判所の前記事実認定及び判断の下ではなおさらのことである。)。しかも、被告人が本件事故の直後ころ捜査官に対して供述しているところによれば、「登り坂になった左カーブに差し掛かり、坂を登り切ろうとアクセルを踏んだら被告車後部が右に振れたため、あわててハンドルを右に切るとともに、アクセルをいっぱいに踏み込んだところ、いったん被告車の体勢が正常に戻り、ほっとしたものの、今度は被告車後部が左に振れ、ハンドルで体勢を立て直そうとするも、ハンドル操作の自由を失い、被告車を右回りに回転させつつ対向車線に進入させた。」というのであり、実際、原審裁判所の検証調書等によれば、被告車は道路の直線部分から左方に大きく湾曲し始めた地点辺りでその後部を右に振ったことが認められ、更には、本件事故の原因について、「アクセルを踏んで後輪にかなり駆動力がかかっているときに丁度カーブに差し掛かり、ハンドルを左に切れば、車体後部が右に振れる可能性が出て来る。」旨の鑑定結果や鑑定人の証言も現れているところであって、これらによれば、検察官が訴因変更の請求をするに当たり被告人によるハンドル操作の点を過失から除外したこととは裏腹に、被告人による不用意な加速措置と相まったハンドル操作が被告車後部の右への振れを引き起こし、これが本件事故に結び付く結果になったことが十分考えられるとともに、他方では、被告人の捜査官に対する前記供述や被告車の同乗者であるBや被告車に追従していた運転者であるCの各証言や、実況見分調書に現れた被告車後部が右に振れた時点での被告車の体勢及びその際の道路状況等によれば、被告車後部が右に振れた段階で、被告人において急加速措置をとると同時に右へ急ハンドルを切らなければ果たして、被告車が左側ガードレールに衝突したり、あるいは、これを乗り越えて路外に転落する虞があったといえるかについては疑問が残るところであり、したがって、被告車後部が右に振れた後、加速措置をとったままの状態で右へ急ハンドルを切った被告人の措置が、当時の状況下において運転操作として適当といえるものであったかについても、疑問が残るものといわざるを得ない。
そうだとすれば、原審裁判所は、検察官が、被告車の進行していた本件事故現場に至るまでの道路状況について間違った前提に立ったうえ、被告人において左方へのカーブ内でそこが登り坂であるためアクセルを吹かして加速したことのみをもって被告人の過失とする旨、誤った訴因変更したのを放置し、およそ不可抗力的な事態の存在したものとは考えられない本件において、本件事故の実態に即応する形に訴因を変更するよう検察官に対して命令ないし勧告しないまま、重大事案について、いきなり被告人を無罪とする判決を言い渡したものであって、審理不尽の違法を犯したものといわざるを得ず、この原審裁判所の措置には、判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反があるといわなければならない。なお、確かに、原審の訴訟手続における検察官の訴因変更の措置には、不手際があることは否めないものの、前示の訴因変更の過程、本件事案の重大性等に照らすならば、いくら検察官が、被告人において左方へのカーブ内でそこが登り坂であるためアクセルを吹かして加速したことのみをもって被告人の過失とする旨いったんは主張したからといって、以後一切他に訴因を変更することが許されなくなるものとは、いまだ考えられない。結局、論旨は理由がある。
よって、その余の控訴趣意(事実誤認)に対する判断をするまでもなく、刑訴法三九七条一項、三七九条により原判決を破棄し、本件について更に審理を尽させるため、同法四〇〇条本文により本件を原裁判所である名古屋地方裁判所に差し戻すこととし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官山本卓 裁判官油田弘佑 裁判官向井千杉)
別紙
被告人は、自動車運転の業務に従事する者であるが、昭和五五年四月一四日午後零時三〇分ころ、普通貨物自動車を運転して県道半田南知多公園線を武豊インター方面から半田インター方面に向かって北進し、愛知県知多郡武豊町字梨子ノ木九番地の九〇先に差し掛かったが、同所は左に大きく湾曲している登り坂であり、当時降雨のため路面が湿潤し、滑り易い状態にあったのであるから、このような場合、自動車運転者としては、あらかじめ減速して進行し、登坂中の加速を厳に避けるべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、漫然約八〇キロメートル毎時の高速で進行を続けたうえ、更に加速した過失により、自車後部が右方に振れ、次いでハンドル操作の自由を失い、自車を右回りに回転させつつ対向車線に進入させ、折から対向して来たA(当時三七年)運転の普通乗用自動車前部に自車左側部を衝突させ、その衝撃により、右Aほか、同人と同乗のD(当時四三年)及びE(当時四四年)にそれぞれ頭蓋粉砕骨折の傷害を負わせて即死させるとともに、自車に同乗のB(当時一八年)に対し加療約三週間を要する頸部捻挫傷の傷害を負わせた。